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2006 V63 IOTA Expedition  #3 (Chuuk観光編)


V63VE/JA8VE 斎藤邦夫

チューク(Chuuk)(旧トラック諸島)

チューク環礁(ミクロネシア連邦政府観光局公式サイトより) 昔はトラック諸島とも言われていましたが、現在はミクロネシア連邦チューク州。その中の世界最大級の環礁がチューク環礁

チューク州は比較的大きな11の島を含む290近い小島から構成されており、州都はチューク環礁内のモエン島(Moen Is.)で空港もこの島にあります。我々はこの島の南端にあるBlue Lagoon Resort(以下BL Resortと略す)に滞在しました。

◎モエン島(春島)とブルー・ラグーン・リゾート

モエン島(Moen Is.)(太平洋諸島センター刊「ミクロネシア連邦」より) この島は日本統治時代には春島と呼ばれており、ブルー・ラグーン・リゾートのある場所は昔の海軍水上飛行艇の滑走路跡。ウエノ島(Weno Is.)とも言われている

ブルー・ラグーン・ダイブショップ BL Resort敷地内にあるダイブ・ショップ。機関銃を飾りに使い内部も色々な写真が貼ってある

夏島市長と このダイブ・ショップのオーナーでありデュブロン島(Dublon Is.夏島)の市長であるグラッドフィン・アイセック氏と

日本の新聞の切り抜き

たまたまダイブショップで夏島市長と会うことが出来ました。
彼が日本の上越市を表敬訪問したときの日本の新聞が店内に貼ってありました。

BLダイブショップにて 一緒の方の名前は聞きませんでしたが色々説明してくれました

彼と一緒のこの写真の左下の壁に見える写真は、かってここ春島と夏島の間の艦隊錨地に停泊していた戦艦「武蔵」と「大和」の写真でした。
私のシャツにはYAMATO ARCと印刷されているのを見て「おお、YAMATOか!」と言います。
で、私も「そう、私の父はYAMATOのクルーだった」と言いますと、簡単に信じてくれて、打ち消すのに一苦労でした。他の人も同じ反応をしましたので、この地では使えない冗談です。

現在のBL ResortのオーナーはGardenia Aisekさん、グラッドフィン夏島市長のお姉さんだそうです。

初代オーナー 昔このホテルはトラック・コンチネンタル・ホテルと言っていたようですが、これを買い取ったのがこの写真にあるキミウオ・アイセック氏で初代オーナー

在日本大使館のフリッツ公使によれば、この方はハリウッドの映画に何回も出た方で有名な人だったそうです。
写真に靖国神社の御札が貼ってあるのが目を引きます。

海岸の戦跡 このホテルがある場所は、昔は第二基地と呼ばれ、旧海軍の水上飛行艇の基地だった場所、海岸に今もその跡がいくつか残っています

水上飛行艇基地跡表示板 BL Resortの入口から直ぐの左側にあり、日本語で「旧日本軍水上飛行艇基地跡」とあり、奥に避難壕が残っている

慰霊碑1 航空機のプロペラ・船のスクリュー・機関銃等で構成された慰霊碑

慰霊碑2 ここに付いていた表示。200610とありますから、ほんの1カ月前に整備されたばかり

広い敷地のホテル受付のある建物の横に作られていました。芝生は良く手入れされ今は波の音だけの静かな場所です。

◎デュブロン島(夏島)と水中戦跡巡り

当初から1日は観光やシュノーケリングをするつもりでしたので、BL Resortの敷地内にお住まいの末永さん(トラックオーシャンサービス)にアレンジをお願いしました。末永さんはチュークに住まわれている唯一の日本人ご家族で既に30年になるそうです。チュークの事を隅々まで良くご存じで、戦跡や植物についても良く調査されていて博識な方でした。なんと言っても日本語で案内していただけるのがなによりです。

BL Resortレストラン横の桟橋からボートで出発です。

モエン島(Moen Is.春島)全景 南東(夏島)方向から見た春島全景。最高峰はトノッケン山369m、左端にBL Resort 右側の丘のように見えるのが龍王山、更に右手半島部にはザビエル高校(旧日本軍通信所)がある)

龍王山 かってここには砲台があり12cm高角砲(単装)6門、対空機銃2基、探照灯等があり、実際に登った末永さんによると今も高角砲がつい最近放置されたかのように残っているとのこと

春島給水桟橋跡 龍王山下の海岸に残る給水施設跡。陸路では行き難い為ボートで接岸

戦艦「武蔵」の係留ブイ 春島と夏島の間の浅瀬に切れて漂流し乗り上げている係留ブイ。うしろの小島は、岩盤で出来ていたため弾薬庫として使用された島

デュブロン島(Dublon Is.夏島)全景 北西方向から見た夏島全景。最高峰は右側トロモン山344m、トラック富士とも言われた

夏島地図(太平洋諸島センター刊「ミクロネシア連邦」より) この島には旧海軍第四艦隊司令部があった。島を周回する道路があるのは今もこの島のみ

ご案内戴いたコースは、海軍病院跡下の桟橋にボートを着け、海軍病院跡−第四艦隊司令部跡−クツワ橋(俗称チョンチョン橋)−旧公学校−トラック公園−旧支庁桟橋と言う順路でした。

海軍病院跡1 桟橋から坂道を少し登った旧海軍病院跡

海軍病院跡2 大きな病院だったことが伺えます

海軍病院跡3 建物は無く土台が沢山残っています

海軍病院跡4 昔の土台をそのまま使った建物

海軍病院跡前教会 昔の地図には「教会堂」とあり、今も使われている教会

放置されたレール この島に鉄道を敷設するために当時持ち込まれたレール

道路 このあたりは第四艦隊司令部の前の道路でもあり片側2車線の道路だったと言われている

赤城丸殉難之碑 赤城丸は旧海軍の特設巡洋艦。引揚邦人565名を緊急乗船させ空爆下のトラックを出港、北水道付近で空爆により沈没。引揚者512名と乗員多数が死亡、春島のシゲトストアのお父さんが亡くしたご家族を悼み建てた碑

第四艦隊司令部跡 (右の)門柱と衛兵の建物跡と思われるコンクリートが見える)

この場所は個人所有地で一人2$払って中に入れて貰った。門柱の鉄の金具は安定した酸化鉄の色をしており錆びていませんでした。

第四艦隊司令部車寄せ跡

司令部跡地の碑 裏に昭和の良き日に此の碑を建てたと読める碑文と中将武田盛治の名前あり、表は草書体で読めず

海軍用地標識 道路脇の倒れかけた標識

この道は第四艦隊司令部跡からクツワ橋(チョンチョン橋)へ降りてくる途中の坂道で、右側(海側)の一帯には沢山の料亭があったと言われている。

料亭街跡? 今は人が住んでいるが、かってのコンクリートの跡が沢山残っている

チョンチョン橋 艦隊山と呼ばれた岬を下り夏島中心街へ向かう橋の俗称。小さな入り江にかかる橋。この橋を越えるとかっての夏島中心街に至る

元夏島公学校 現在は地方政府の建物としてそのまま使われている

1922(大正11)年に南洋庁公学校規則の制定により島民学校が公学校と改正されており、この時トラックには(日本人の為の)尋常小学校があり公学校は夏島・水曜島にあったとされています。
この夏島公学校が(島民学校として)何時作られたか未調査ですが、水曜島の島民学校は1918(大正7)年、夏島の南洋群島第一尋常小学校は1919(大正8)年に開校されていますので、多分同じ様な時期と考えられます。

門柱の左側には、チューク歴史保存局とチューク観光局が作った「Chuuk Elementary School / Municipal Office」の説明パネルが設けられていました。

都絡(トラック)公園記念碑 トラック公園の一角にあり「都絡公園 御即位記念してこの園・・・大正4年11月10日 東郷吉太郎」と読める碑文。
大正天皇の即位を記念して開かれた「都絡公園」の記念碑。
左の大木は高松宮トラック島訪問記念植樹
 

公学校の直ぐ下にあり隣に記念植樹のタマナの木(テリハボク)の大木が茂っていました。碑文も落ち着いて見たかったのですが近所から物売りが沢山集まって来て断念しました。
この丘を桟橋の方へ下る途中に、かの冒険ダン吉のモデルとされる森 子弁の碑がありましたが、立ち止まって見たり写真を撮るとお金を要求されるので、横目で見て通り過ぎました。 

ボートは先回りして元支庁桟橋で我々を待っていてくれました。 

支庁桟橋跡 道路は元市街地より整然と桟橋へ延びていて道路脇には今も側溝が残っている

ここから再びボートに乗り元南貿桟橋沖を経て昼食のためオーロラ島(男島)へ向かいました。

検潮所設備跡 かっては検潮所として海抜の基準等に重要な役割をしていた設備跡。支庁桟橋を出て直ぐの所

この支庁桟橋の左側(西側)には、1万トン桟橋跡があり、我々は行きませんでしたが、ここに1万トン油槽跡があります。衛星写真で見ると1個のタンクは明確に見え他の2個はかすかに跡が認められました。

昼食のため休憩した島は、オーロラ島(男島)で周囲を徒歩1分で回れる小さな島ですが、宿泊設備と休憩所がありました。

午後は、シュノーケリングで水中戦跡を見ました。

○五星丸

最初に冬島(Uman Is.)の北西約700mの場所に船首を下に沈んでいる五星丸(海軍に徴用された貨物船で1931t長さ82m12m)を見ました。船首部は深海にとけ込んで見えませんが船尾はシュノーケリングで沢山の魚と共によく見えました。末永さんによるとこの場所は日本のさる小説の舞台になった場所とかで、確かに船首が沈んでいる深みは限りなく透明な青で(もし私がダイビングが出来たら)何処までもついて行きたくなる様な幻想を感じました。

○零戦

零戦用の1200m滑走路があったと言う竹島(Eten Is.)の直ぐ近くにひっくり返って沈んでいる零戦を見ました。満潮に近かったせいか水深もかなり深く(8m位?)水が少し濁っていてよく見えないので、2-3mもぐってみると機体も大きくはっきり見えましたが耳が痛くてそれ以上無理でした。

実は私事ですが、この年の5月に白内障の手術をして両眼のレンズを交換?とても良く見えるようになり、医者にシュノーケリングOKをもらい、度付きのマスクを持参して臨みましたが、水中でも1.5の視力が出て実に良く見えて感激しました。長生きはするものです(笑)。

◎春島巡り

出発当日、飛行機の出発時間までを利用して末永さんに春島を案内して戴きました。

・「報国隊戦没者之碑」碑文には「司法省派遣報国隊長 菊楽 昭和2010月建立」とありました。この島の滑走路等の建設は、当時の横浜刑務所からの囚人3000人による強制労働によりなされ、帰還時の生存者はわずか280人だったそうです。

・昔南拓により開発された場所、米軍の占領司令部、現在の官庁街等の説明を受ける。

・末永さんが教えてくれたチュークに残る日本語:カッソーロ(飛行場の意)、ジドウシャ、ウンテン、トタン、ナミトタン、アミ、ガッコウ、ハダシ、ベンジョ、ゲンカン、カメノコなど。

○ザビエル高校(旧海軍通信所)

ザビエル高校1 旧海軍通信所、春島の東へ突き出た半島部の丘の上にある。建物はそのまま現在イエズス会の運営するXavier High Schoolとして使用されている

ザビエル高校2 現在(自家)発電機が置かれているこの建物は昔も発電所として使われていたかもしれない。航空機によると思われる機銃弾の跡がある

ザビエル高校3 窓の扉も厚い鉄製で今も開閉でき使用されており、屋上も広く、庭にはかっての通信塔の土台が残っていた

ザビエル高校壁の絵 校内の壁に生徒が描いた絵。この高校は1953年にミクロネシアに出来た最初の4年制の高校で全学生160名、ミクロネシア各地から集まった学生に全寮制で高い水準の教育をしている名門高校

ザビエル高校内戦争遺物展示 校内に展示されていた戦時遺物

ザビエル高校屋上 建物が大きく屋上も広い)

灯台跡 半島部の先端にある灯台跡。この灯台はNorth East Pass(北東水路)から入ってくる艦艇に夏島へ至る水路を示す標識となっていた

ザビエル高校からの遠望 この高校からの眺めはすばらしく、かるか遠くにチューク環礁の外周が白く波立って見える

春島・夏島巡りは短い時間でしたが、帰国して調べてみるとまた色々な事がわかり、メールで末永さんに再度教えて戴いたりもしました。
私がここに記したことも、間違っている部分もあるかもしれません。将来また機会ある度に少しずつ調べてみたいと思っています。

無線運用に戦跡巡りにと忙しい旅でしたが、美しい海と夕日、歴史の重みを背負った島々のたたずまい、とうてい急ぎ足の旅では尽くせるものではありません。

読んでいただく皆様に少しでもミクロネシアの今と昔に関心を持っていただければと念ずる次第です。

グアムのホテルでのJA1JQY グアムのホテルで諸経費を入力している松井OM、いつもながらExpeditionチームリーダーご苦労様でした
<完>

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