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マーシャル便り(最終回)


 

エピローグ

長い様で短かったマーシャルでの2年間に 、幾つかの離島とミクロネシア連邦のポンペイを訪ねることが出来ました。
島から帰った後、ふとした機会に昔の写真や資料が目に触れましたので、幾つかを以下に紹介します。

南洋群島写真帳 この本は昭和13年発行の写真帳を基調として複刻した物で、1978.5.5 日本で印刷されたとあります。発行所:グアム新報社東京支局

この写真帳は、JICAJOCVマーシャル事務所の蔵書の中にありました。ある時何気なく書棚の中を見ていて発見しました。
この中には昔の南洋群島(今のマーシャルやミクロネシア連邦等)の写真が沢山載っていました。

熱帯産業研究所ポナペ支所 少なくも昭和13年より少し前の写真と思われます。この建物跡は、このマーシャル便り「ポンペイ」の中に「植物園の中の廃墟」として紹介してあります。次に現在の写真を再度示しておきます。

熱帯産業研究所ポナペ支所跡(再掲) この史跡は、ポンペイのコロニアのはずれにある植物園に入ってすぐの所にあります。

新教南洋伝導団ポナペ布教所 と、この写真帳には説明が付いていました。以下は現在の写真です。

プロテスタント教会(再掲) このマーシャル便り「ポンペイ」に紹介済みです。1930年代に建てられたと言われ当時も今も使われています。

南洋庁気象台ヤルート測候所 マーシャル便り「ジャボール」に「気象観測所跡」と遠景で紹介してある建物の当時の姿。

南洋庁気象台ヤルート測候所跡 新しい写真で現在の測候所跡を示します。正面は30m位で外海になり草木が繁り回り込むことが出来ませんでした。

南洋庁ヤルート医院 あまり鮮明な写真ではありませんが、木造のかなり大きな病院だったことがわかります。

病院跡(再掲) マーシャル便り「ジャボール」に「病院跡」として紹介してある現在の様子。階段と高床式の土台がコンクリートで出来ており、まさしくかっての写真と対応がつきます。

ジャボールには、今も電信所と土地の人にも呼ばれている大きなコンクリート製の建物跡があります(次の写真)。
当時はどんな偉容を誇っていたのだろうかと、見た時から思い続けていましたが、図らずも、このマーシャル便りを読まれたJA1JCF百武OMから 、私が「ジャボール」に掲載した電信所跡に関して、昔の写真を持っていますとのメールを戴きました。
早速送って頂きその美しい建物に思わず感激してしまいました。

電信所正面(再掲) この島に残る一番大きな建物跡です。

ヤルート無線電信所 とても美しい建物です。屋上の囲い部分は現在は失われていますが、紛れもなく同じ構造物です。現在、この島ではいまもって公共業務として電文を扱ってくれる施設はありません。

百武OMから戴いた写真の出典は「南洋庁始政十周年記念 南洋群島写真帳」南洋庁編纂、昭和7(1932)年7月刊 とのことです。
この政府刊行物から引用させて戴きました。

さらに、一緒に戴いた写真を以下に紹介しておきます。
これらの写真は現在もジャボール島に青年海外協力隊で先生として赴任している隊員達にもとても参考になると思います。

ジャルート・ジャボール公学校 日本統治時代の学校は今の小学校と同じ場所にあったそうです。現在の小学校に比べとても立派に思えます。また生徒もそろいの白い上着を着ていてこれが半世紀以上前の小学校かと、現地を見て来ただけに感動します。

ヤルート支庁 電信所の並びの角にヤルート支庁があったと案内して戴いたオーダル・ラニ氏は言っていました。昔はこんな立派な建物があったと言うことです。

ヤルート島民部落 ジャボール島かどうか定かではありませんが、ジャボール島にも酋長の家跡がありましたから、この写真はジャボール(島)かもしれません。それにしても家々は立派です。着ている服も白い服を着ています。

 

最初に引用した「南洋群島写真帳」の見開きは次の写真の様になっていました。

(写真43-15 南洋群島写真帳見開き 昔はよかったと島の老人はいう・・・)

この写真帳を複刻されまた編者でもある、南洋群島協会理事で南洋貿易株式会社嘱託 小菅輝雄 さんと言う方が、あとがきに

「(前略)・・・全く先輩の大事業に打たれる感じがします。今は昔にかえらない−−。しかし、歴史は違った形で繰り返されるのではないでしょうか。(中略)このささやかな本が、今後のミクロネシアの国造りの人々の一粒の心の糧になれば、幸いです。」

と結ばれています。
この写真帳から幾つかの写真を引用させて戴いたことをお断りさせて戴き、一人でも多くの方が今昔の有様を知り何かを感じ取っていただければと思います。 

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2年の任期を終えて47日に成田へ帰ってきました。
「春は名のみの風の寒さよ」の通りその後も肌寒い日が続きましたが、桜も葉桜で残り花びらが路上に舞う風情を味わわせてくれました。

やはり帰ってきて思うことは、自分が育った気候風土ばかりでなく、日本と言う国があるいは日本人と言う民族が依って今に至るものは何だろうかと言うことでした。
それが分かったからどうすると言う物ではないのですが、何か一層この国がいとおしく思えました。

マーシャルでは、アマチュア無線の運用が許され、時間も十分あって我が人生でこんなに思う存分運用したのは初めてでした。
太平洋の真ん中から、ほぼコンスタントにJAとは交信が出来、かつロングパスやショートパスでのEUとの交信、何も聞こえない時にロングパスのCQでアフリカが59で応答してくる驚きは、少年の日のEs伝搬の感激を思い起こさせてくれました。
ともあれCQに対しいつも応答して戴いたJAWVK等々のOM方に心から御礼申し上げます。
おかげさまで単調な現地での生活を楽しく過ごすことが出来ました。
また私の赴任中に何組かの方々が海外移動運用のため来られて、お会いできたのもうれしい思い出になっております。

最後に、お忙しい中、このホームページに毎回私のマーシャル便りをUpして戴き、且つ自分でやっても大変な私のQSLカードの処理をすべて引き受けて戴いた三宅OMに感謝する次第です。
持つべき物は、この様な友人を言うのだと思います。いつか三宅OMExpeditionQSLマネージャーをさせて戴いて、ご恩を少しでも返したいと思っています。そのためには長生きしなければなりません(笑)。

私の駄文、「マーシャル便り」を長い間お読み戴きありがとう御座いました。少しでもマーシャルという国を身近に感じていただければうれしい限りです。

斎藤邦夫 V73VE / JA8VE 拝

(了)

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