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BN0Fの台湾B級日記


李登輝さんから日本の子供へ


 22歳まで日本人として日本教育を受けた、台湾前総統の李登輝氏は、台湾における知日派の筆頭といえる。
直筆の近著「『武士道』解題」(小学館刊)では、「日本人よ自信をもて、日本人よ『武士道』を忘れるな」と、文章を締めくくった。
今の日本人よりも、本来の日本人の姿を体現しているとも評される。
 その李登輝氏が、2003年3月に台北市の日本人学校で、子供たちを前にスピーチを行った。
長編だが、心温まるその講演原稿をいただいたので、く全文をここに掲載する。
とくに日本の小中学生にこうした話に関心をもってもらいたいと、李登輝氏は願っているようだ。

編者注)
本項は、今の台湾を知る意味で、BN0F河崎氏と編者が協議の上、ご紹介するものです。
云うまでもなく、本項には、いかなる政治的意図のないことを申し添えると共に、河崎氏が皆さんにお伝えしたかった、「今」の台湾の、ひとつの姿を感じ取っていただければ幸いです。

尚、画像及び本項の無断転載を禁じます。


李登輝 前台湾総統 2002年12月撮影 (C) M.Kawasaki

 手賀校長先生、ご来賓の皆様、ご父兄の皆様、先生方および学生の皆さん!こんにちは! ただいまご紹介を受けました李登輝です。
本日は、日僑協会の岩永理事長および、台北日本人学校の手賀校長先生のお招きを頂き、初めて貴校を訪問できたことをたいへんうれしく思っています。

 昨年(2002年)9月には台中日本人学校を訪れ、親しく新校舎の完成を見ることができました。
その時、学生さんとは「健全な身体に健全な精神を宿らせ、国際感覚を身につけ、試験は満点ばかり、良い子として、お父さんやお母さんを喜ばせてください」と励ましてきました。
 私は国際感覚を身につけなさいと言って、台湾の歴史についてやさしい話をしました。
それで、私は今日も「台湾の歴史において日本人がしたこと」を題に、皆さんに、皆さんの日本人の先輩が台湾において何をしたかについて、その実績を述べ、偉大な先輩たちが残した有意義な、精神的なものは何であったかをお伝えしようと考えています。
 その前に、皆さんに伝えたいひとつのエピソードがあります。それは最近出版された東京都知事の石原先生が書かれた「日本よ!」と言う本の中に、このような一節がありました。

 先年に亡くなった、かつての第2次世界大戦での世界撃墜王、ゼロ戦のエース坂井三郎さんに、じかに聞いた話だが、ある時、坂井さんが東京都下の中央線に乗っていたら、前の席にどこかの大学に通う大学生が2人座ったそうな。
最近の大学生はどんな話をするものかと聞いていたら、2人の会話が進んでいき、突然1人がもう片方に、
 「おい、お前知っているか、日本は50年前にアメリカと戦争したんだってよう」いわれた相手が、
「嘘っ!」
「馬鹿、それが本当なんだよ。」
「エエッ、マジかあ。で、どっちが勝ったんだよ」
それを聞いて坂井さんはいたたまれずに次の駅で降りてしまい、ホームの端でしばらく1人で突っ立ったきりでいたそうな。何と無残な話ではないか。

 この一節は大部分が事実だと思います。
これはかなり大変なことじゃないかと思います。
ひとつは日本の若い人は、あまり日本の歴史について、知らないと言えることです。
ふたつは学校の教育が、子供たちにかなり自己否定的なことをやってきたことです。

 1945年以後の日本においては、世界的にも、日本にとっても代え難い日本特有の指導理念や、道徳規範を示す歴史的事実が完全に否定されました。
日本の過去はすべて間違いであり、歴史を見る必要も、知る必要もないというように暴走していったのです。
 日本の過去には政治、教育、文化の面で誤った指導があったかも知れませんが、また素晴らしい面もたくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、日本社会の根底部分に渦巻いている、日本および日本人としての誇りを奪い、自信を喪失させる種々の出来事に心を痛める一人であります。

 このエピソードを何とかして、よい方向に直したいがゆえに、きょうは「台湾の歴史において日本人がしたこと」について、大いにみなさまと話したいわけでございます。

 では、台湾歴史において日本人がしたことをお話ししましょう。 1894年、清国は朝鮮の主権問題が原因で日本と日清戦争を引き起こしました。
戦争に負けた清国は日本と馬関条約を結び、何の関係もない、しかも北京から2000キロ以上も離れた台湾を日本に割譲しました。
しかし、台湾の官民はもろともに不服を表明し、唐景松を総統に推し立て、「台湾民主国」を成立させました。
 日本の接収に抵抗したが長続きせず、1895年には台湾は日本に接収され、日本の植民地となりました。台湾総督がおかれ、その後、第2次大戦終結の1945年まで日本による50年間の植民統治が続いたのであります。

 この50年間、台湾を植民地として統治した日本および日本人は、台湾に対して何をやり、何を残したでしょう?

 台湾が満州の異民族である清国の統治を離れた後、結局はまた新たな異民族である日本が代わって統治したことになります。
このとき、新帝国主義の日本は明治維新に入り、旧帝国の清王朝よりもはるかに近代的でありました。
これは台湾にとって不幸中の幸いとも言えます。

 1898年に第4代総督の児玉源太郎が民政長官に後藤新平氏を起用したことによって、初めて各項目の近代化建設が計画的に進められるようになりました。
20世紀に入る前すでに、台湾はいくつか最も重要な基礎建設を始めたのです。

 1899年には台北市で水道工事がすでに竣工しました。同じ年、台湾始めての現代化した金融機構である台湾銀行が正式に設立されました。
これによって、台湾資本主義化の基礎が確立されました。

 台湾の南北を走る縦貫鉄道も同じくこの年に起工されました。20世紀に入るにおよんで、衛生改善が最も重要であると見なされ、下水道工事も開始されました。後藤新平氏の任期内にさらに完成した主なものは、土地、林野、戸籍の調査であります。
 度量衡(どりょうこう)と貨幣の統一、郵政、電信、航運、港湾、鉄道、道路などの運輸事業を積極的に建設し、または拡張をしました。
総長405キロにおよぶ縦貫鉄道は、ついに1908年に全線開通されました。
一方、中国大陸においては、清国政府はまだ倒れていない、中華民国もまだ誕生していない1911年には、世界3大登山鉄道にあたる阿里山登山鉄道がすでに開通を見ました。
 もとより、これらの建設はその資本主義と植民主義政策を推進するためであり、物産の流通を容易にするためでありますが、これによって全島の疎通が大いに加速されたのは言うまでもありません。
これで、19世紀の末には、台湾全体の全島的または国造りの観念が生まれ始めました。

 産業方面では、20世紀の初頭10年間までには、新式を誇る製糖会社が6つも相次いで成立し、台湾の製糖事業は近代化工業生産に仲間入りしました。
工業発展に使われる電力は20世紀初頭に開発を開始しました。最初の水力発電所は台北深坑にある亀山発電所であります。1903年に起工し、2年後に完成、電気を供給し始めました。

 特筆すべきは、台湾の財政は1904年には完全に自立更生を成し遂げたことです。台湾はもはや日本の本国の中央に補助を仰ぐ必要がなくなりました。
 すなわち、台湾は20世紀に入って、完全にその姿を変えたといえます。
20世紀の前半期に、台湾は各レベルの厳密な政府、司法機関、警察機構、戸政制度、農業組合、金融組織、大規模な農田水利、道路、鉄道などの交通網、電力およびその輸送システムなどのインフラを作り上げました。
そのうえ、全島あまねく、普通教育を普及させました。

 そのうち、基礎教育の普及は最も大きな影響をもたらしたと言っても過言ではありません。
「帝国臣民」の意識形態は一応さておいて、本世紀にやっと始まった現代新式教育は、台湾社会に対して間違いなく相当な質的な変化をおよぼしました。

 1943年、台湾の学齢児童の就学率はすでに71.3%に達していました。
山地では86.4%でした。非識字者が減り、識字率の向上によって、台湾の人は新しい現代教育を通して、近代西方文明、基本科学技術と新しい思想観念を受け入れました。

 古い農業社会体質を変えたばかりでなく、過去の旧暦に基づく農業社会の生活方式から7日を1週間とする生活に変わり始め、過去の伝統的農業社会の悪習を受け継がなくなりました。
時間を守らない、約束を守らない、法治観念がないなどは、この教育により、相当の改善が見られました。
それで台湾社会はだんだん、市民社会へと移り変っていきました。

 半世紀にわたる日本統治は、台湾人の文化と価値観および台湾社会の近代化などに、大きな変化をもたらしました。
一般が見るところでは、現在台湾と中国大陸の落差は大きく、台湾は各方面において中国大陸をしのいでおり、30年は進んでいるといわれています。

台湾の近代化に尽くし、台湾で最も愛される日本人 八田與一の像

 先ほど、私は日本統治時代に大規模な農田灌漑(かんがい)水利事業を興したことに触れましたが、ここで台湾の歴史において、日本人が成したことの一例として八田與一先生が成し遂げた未曾有(みぞう)の大事業「烏山頭(うさんとう)ダム、嘉南大曙(かなんたいしゅう)、15万町歩(1町歩はおよそ1ヘクタール)の土地に、3年輪作の灌漑制度」を取り上げ、これが八田與一氏によって表現される「日本人の精神」であることを、ある講演会でお話を致しました。
 その時、私が挙げました八田氏によって表現される日本人の精神とは、「1、公に奉ず る精神、2、その精神に宿る公義と、3、義を重んじ誠をもって率先垂範(そっせんすいはん)、実践躬行(じっせんきゅうこう)すること」でした。
日本統治50年間は、このように非常に重要な台湾近代化の事業を完成したのですが、ここで働く日本人ひとりひとりが八田與一氏に見るような精神で個人を律し、台湾の人に模範となるべく奮闘したと思います。
 つまり、台湾で働いたほとんどの日本人は八田與一氏と同じ精神でやって来たと思います。
植民地としての台湾人に対しては、かなり差別待遇がひどく、また非常な不満を買いましたが、きちんと自己を厳しく律する日本人の教師、警察官、公務員、司法官はいつでも尊敬されています。

 50年間の日本統治は台湾の近代化をもたらし、物質面の基本建設ばかりでなく、最も重要なことは、台湾人に文化と価値観をもたらし、国家単位の真実感を形成しました。
アメリカの学者ダグラス・メンデルは、「日本政府は台湾人を日本人に変えるよう努力したが、成功しなかった、だが、台湾人をして中国人と違ったものに変えることに成功した」といっておりますが、これは歴史の真実だと思います。

 これで今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。
(2003/3/28)

 

李登輝夫妻との会食風景 2003年 9月 29日撮影 (C)M. Kawasaki

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