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マーシャル便り


ジャボール

ジャボール(Jabwor)島は、Jaluit(ジャルート) Atoll(環礁)の一つの島です。マーシャルには昔文字が無かったことも関係しているのでしょう、地名の表記は書かれている物でまちまちです。ここは昔ヤルートと言われ、南洋庁のヤルート支庁があった所です。
(編者注:戦前の日本が国際連盟の委任によって統治するための行政府)

イミチ島含め、私の任期中に一度は行ってみたいと思って居たところ、日本から慰霊団の一行が来られてチャーター便が飛ぶことを知りました。
エアマ(Air Marshall)は定期便と言っても、いつも変更があり「行きはよいよい 帰れない」ことがよくあり、かつて2週間足止めを食った人も居て行くのがためらわれていたのですが、好機とばかり決心し、行きは定期便帰りはチャーター便に同乗させて戴くことにしました。

ジャルート環礁はRalik Chain IOTA OC-028に属し、IOTAとして珍しいわけではありませんが、どうせ行くならと無線機とJA1KJW中山OM製のスパイダービーム(21/18/14)を持って 、20061月13日(金)にマジュロを出発しました。
一人で無線機、リニア、アンテナ、アンテナポール、食料を持ったので荷物は101.5lb Excess 42.6$ 取られました。

海図のジャボール島 いつのヤルート島かわかりませんが旧海軍の海図がベースになっているはずですので、昔の街の配置を知る貴重なてがかりです。

海図の上が北、下(南)側は空港へ環礁が繋がっています。地図の縮尺から割り出すと島は長さ約1Km幅約300m程度の小さな島です。

気象観測所跡 飛行場からジャボールの街にさしかかると最初に目にとまるのがこのコンクリートの建物跡です。右側は給水のため作られたと言う水タンク跡。昔は沢山あったそうです。

このあたりの左側には今は何も有りませんが、昔は旅館があったそうです。この道を左に曲がるとすぐ市街になり右側に大きなコンクリート製の建物跡が有りました。

電信所 電信所と今も言われている建物跡。この部分は発電機用の燃料を貯蔵した建物。

電信所正面 階段を上がると左に大きな広間、右側に事務室、その右に階段があり下の発電機がある階へ降りられるようになっていました。

電信所はジャボール島に残る建物跡で一番大きく、あと気象観測所跡があるのみで、地上にそびえる建物跡は残っていません。あるのは土台や階段、貯水槽のみです。

空港に出迎えてくれていた宿泊施設を保有する電力会社の方の案内で施設へ向かいました。

宿泊施設 MEC(Marshalls Energy Company)と呼ばれている電力会社の宿泊施設に泊めてもらいました。2階にベッドルームが2つ、1階にも2室ありキッチン、トイレ、シャワーは共用でした。

アンテナ スパイダービームを2Hで組み上げ、宿泊施設横の空き地に設置しました。アルミマストを伸ばしステーを張るときだけ見物人も動員し数人に手伝ってもらいました。

2段ステー 8mのアルミ製マストですが、ここはとても風が強いのできちんと2段ステーをとりました。

運用部屋 端部屋がいいと言ったところこの部屋は今使ってないと言われましたが、それならなおさらと運用専用に使わせてもらいました。クーラー付き照明もある広い部屋でした。

ジャボールの道路1 あまり人通りがあるわけではありませんが、家が適度にあって時に子供達の声が聞こえます。

到着した日に、イミチ島へ行く手配をし、ジャボールを案内してくれる人が居ないか探してもらうことにしました。
むろん、ここのジャルート高校の先生として赴任している青年海外協力隊の隊員2人も、休日に案内してくれましたが、結果的にジャルート島に住んでおられる 、現在84才の方に案内してもらうことが出来ました。

オーダル・ラニ氏 Oder Rani氏は1922.1.22生まれ現在84才国民学校(小学校)本科3年と補修科2年を履修、今もひらがなカタカナが読めて流ちょうな日本語を話されます。

この方のご厚意で、島を一緒に回って案内して戴きました。
氏は今もかっての街並みを鮮明に覚えておられて、ここにはタバコ屋があった、この角には床屋があった、ここには第二売店と呼ばれた大きな店があって 、レストランもあり「沢山そこから(今で言う)テイクアウトをしてあの頃は良かった」とか、この第二売店にはパンを焼く窯もあった、と当時の有様を日本語で話してくれました。
この狭い街に商店が200〜300はあり、道路は中央が少し高くなったペーブメント(舗装)になっていたと説明してくれました。
文献に依るとヤルートには割烹旅館が4軒もあり、かなりのにぎわいのあった街のようです。

ヤルートは第一次大戦の終わりまではドイツが実行支配しており、当時から貿易拠点として栄えていました。
従って今もドイツ時代の痕跡がいくつか残っていました。

3角形のコンクリート 昔ドイツ時代から大きな教会がここにありその教会の先端部分だったのだそうです。外洋に面し三角形の先端を海に向け今もそびえるように立っています。

防波堤 外洋側に面して波を跳ね返す様に弓なりに作られた防波堤が、今もかなりの部分残っていました。

病院跡 島の南東、外海に面して残る病院跡。しっかりした階段や土台が立派な病院だったことをうかがわせます。

 病院の防空壕跡。

入院棟跡 病院正面に向かって左側に入院棟がありその土台が残っていました。

病院横水タンク 円形の水タンクがいくつもあったそうです。この水タンクは今も居住者が利用している様に思われました。

南洋貿易マネージャー宅跡 内海側の海岸通りの一等地と思われます。写真左のコンクリートがトイレの跡、右の大木は昔はなかったそうです。

南洋貿易倉庫跡 南洋貿易は沢山の倉庫群を保有しており、ここはその一つでコプラの荷揚げをボートが着くたびに手押しのトロッコで20〜30回行い倉庫へ移したのだそうです。

南洋貿易倉庫前レール跡 このレール跡は2軌道あったトロッコのレールの一部。

給水用タンク ラグーン側海岸に、入港する船舶へ給水するためのタンクが少なくも4つあったそうです。コンクリート製6角形で2つ繋がった構造をしています。

小学校の貯水槽 現在の小学校のグランドに今も残るドイツ時代からの貯水槽。日本統治時代もここに小学校があったそうです。

コンクリート跡1 現在のジャボールの道路は昔と同じ場所にあり、従って家並みはこのようなコンクリートの土台の上に作られています。

コンクリート跡2 土台だけでなく水槽や他の用途だったであろうコンクリート製の跡が随所に残っていました。

コンクリート跡3

コンクリート跡4 たまたま豚がゆっくりと横切っていました。

ジャボールの道路2 道路はどこの離島にもある景色ですが、ひとたび家の敷地をのぞき込むと上の写真のようなコンクリートの土台に気付かされます。

オーダル・ラニ氏に案内して戴き、メモを取りながら島を巡ったのですが、まだ道がどうなっているのかわからないままだったので頭の中で整理が付かず、再度一人で島を歩いてみました。
その結果をかなりいい加減なところがありますが地図に整理してみました。
今後どなたかが私の地図の間違っている所を修正したり、さらに新しい情報を書き加えるベースになればと思います。

短時間の調査でしたが、当時を知るラニーさんの様な方がご健在でおられるうちに、文化人類学等のご専門の方の調査があったらと思いました。

地図はここからダウンロードできます。
Jaluit Labwor地図 (pdf形式) 

当時の街並みの写真が無いかとインターネットで調べてみましたら参考になる写真が見つかりましたので紹介しておきます。

http://www.yashinomi.to/micsem_j/photos/towns/32.htm

http://www.yashinomi.to/micsem_j/photos/copra/22.htm

http://www.yashinomi.to/micsem_j/photos/jpn_flag/24.htm

http://www.yashinomi.to/micsem_j/photos/jpn_flag/27.htm

アンテナ撤収 帰る前日涼しくなってからアンテナの撤収です。物珍しそうに見ていた子供がステーの巻き取りを手伝ってくれました。

慰霊の祭壇 最終日予定通り日本からの慰霊団の一行がエアマで到着。南東の外海に面した場所に祭壇が作られました。

慰霊式典 この海域で肉親を無くされた4名の方が慰霊の文を読み上げられ、私も拝聴させて戴きました。まだ小さい時にお父さんを亡くされた方々で私とあまり年齢は違わない方々でした。

献花 持参された花を海に流しいくつかの歌をみんなで歌い慰霊の式を終えました。

帰途につく慰霊団の車 ジャボールに到着して2時間と少しの時間でまたマジュロへ戻ります。

ジャボール小学校を望む 丁度飛行機から桟橋や小学校(中央下の細長い屋根が小学校)を見ることが出来ました。

ジャボール北東端 現高校がある場所で新しい高校の建設工事が進んでいます。

イミチ島 イミチ島の上空を通りましたので慌てて撮った1枚です。深い緑が半世紀前の昔を飲み込んでいるようでした。

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