This site devoted entirely to Amateur Radio


マーシャル便り


イミチ島

イミチ(Imiej)島は、ジャルート環礁(Jaluit Atoll)の1つの島で昔海軍航空隊の基地があった島です。
以前から一度行ってみたい所でしたので、1/13(金)のエアマ(Air Marshall)定期便で飛行場のあるジャルート環礁のジャボール(Jabwor)島に入りました。
この季節天候が荒れ模様で雨が多く、ジャボールには終日強い風が吹きつけていました。
天気予報も無い所ですので、なるべく早くと、翌日土曜日に船を出してもらう手配をしました。

ジャボールの桟橋を出発 2個の船外エンジンを付けたボートでイミチ島へ。案内にはこの島出身のチロン氏(写真右)がついてくれました。 

この日天気は良かったのですがラグーンでも波があり高速で走るとボートの底が海面をたたき座って居られません。約40分でイミチ島が見えてきました。

イミチ島の海岸 島に近づいて真っ先に眼に入ってきた海岸のコンクリート。

陸から見たコンクリート これらは飛行艇の基地だったことを示しています。

今は誰かが住んで居る建物 柱の一部は居住者によって補修されています。

この建物は、島の防衛に派遣された陸軍の第2機関銃隊兵舎跡と思われます。今はかなり内外装とも手が加えられ人が居住していました。

海軍航空隊兵舎跡 兵舎に向かって左側の部分

海軍航空隊兵舎跡 兵舎に向かって右側の部分。向き抜けのバルコニーの様に見えますが、内外装共完全に破壊されて柱だけが残っています。

この島は周辺の海軍の基地が次々と陥落する中で終戦まで持ちこたえた所です。たとえばマジュロからは今もプロペラ機のエアマが30分程で飛んでくる距離です。
19年10月から4ヶ月間1日80から120機に及ぶ小型機が連続来襲したと記録されています。

海軍航空隊兵舎跡 上に示した2枚の写真の建物は繋がっていたと思われますが、間の部分に直撃弾を受けて破壊されています。

桟橋跡 航空隊桟橋の跡と思われます。兵舎跡のすぐ前にありました。

小型沈船 桟橋跡のコンクリートの瓦礫を先へ行くと沈船がありましたが、これは昔の日本の物かどうかわかりません

海中のコンクリート跡 同じ場所でふと海中を見て気付きました。明らかに当時のもとと思われます。

航空隊桟橋から南の方角を望む 激しい爆撃や艦砲射撃で島は焼け野原になったそうですが、半世紀以上の歳月を経たこの景色はきっと昔とあまり変わっていないのではと思われます。

ラグーンを向いた砲 地面の植物がかなり繁っています。

魚雷収容架 だと思います。倒してまとめられてありますが同じ物をウオッジェ島でも見た記憶があります。

発動機 上の写真と同じ場所にありました。魚雷や爆弾を牽引したり運搬するための動力用と思われます。

病院跡 地下があったそうですが今は入れないと案内人が言っていました。上部はほとんど残っていません。

病院用水槽 雨水を溜める水タンクと動力機関が残っていました。水タンクはいくつもあり、今も現地の人が使っていました。

病院跡の場所は島の北側内海側ですが、そのすぐ前に新しいDespensaryが出来ていました。
昔病院があった場所だから作ったのでしょうかあるいは単なる偶然でしょうか。ここから道のないジャングルを外海側へ抜けました。

砲台1 北外海側にある砲台。砲は口径12.7cm2連装電動式高角砲。

砲台2 この場所に砲は2基ありましたがこの1基は直撃弾を受けたと思われ大きく傾いて砲身も破損していました。

観測所 と思われます。砲台の先100m位の所にあり、厚いコンクリート製でほとんど損傷していません。

内海の海岸1 ジャングルの中から海岸の砂地へ出て思わず息を呑んでしまいました。案内人はあまり英語は得意ではないのですが日本の飛行機のエンジンだと言います。

内海の海岸2 上の写真の場所でふと先を見るとまた別のエンジンとプロペラがあります。

内海の海岸3 海の中にも飛行機の脚でしょうか波一つ無いラグーンの岸辺にぽつんとたたずんでいます。

内海の海岸4 ここにもまた、と思って見ていてふと目を上げると何と広い砂浜にずーっと向こうまで点々と残骸が見えるではありませんか。 

これらは米軍の上陸用舟艇や戦車の上陸を阻止するためにバリケードとして敷設された物で、半世紀以上経た今も当時のまま残っていました。
補給も絶たれ上陸されれば当然玉砕という中の気迫が静かな砂浜に今も残るようで思わず胸がしめつけられました。

この後ボートで少し移動して発電所跡へ行くため桟橋へ戻りましたが、ここでも干潮の岸辺を見ると沢山の人工物が海中にありました。

桟橋の水際 発電機かモーターでしょうか、その向こうにはプロペラが多数見えます。

発電所1 イミチ島の桟橋からボートで数分、海岸からすぐの所にある発電所。部屋にはエンジン駆動の発電機が2基ありました。

発電所2 上の写真を反対側から撮った写真。

発電所3 もう一台の発電機。

発電所トイレ トイレとシャワールーム(風呂?)があった部屋。反対側には炊事室がありカマド等がそのまま残っていました。

配電盤裏1 配電室は何もない瓦礫の部屋でしたが、壁の裏側には明らかにこの部屋がそうだったことを物語っています。

配電盤裏2 実はこの部屋は真っ暗で足もとに穴があいていたり段差があり、懐中電灯を持たなかったのでフラッシュのおかげで撮れた写真です。 

発電所外壁 外壁には無数の穴が残り、周囲は樹木が深く繁り訪れる人も居ないことを物語っています。この発電所はイミチ島とジャボール市街の両方へ埋設ケーブルで電力を供給していました。

発電所跡から再びボートに乗り帰途につきます。イミチ島の隣の島は細長くジャボールの方まで続いている島でアネマン(Aineman)島と言われていますが、この島の北内海側イミチ島に近いところに沈船がありました。

アネマン島海図 上がイミチ島(海図にはEmidj)下がアネマン島(海図にはAineman)です。図の上下半分くらいの所に島に接して沈船の絵が描かれてあります。

五隆丸1 特殊輸送艦五隆丸(1900t)。この船は長官直属艦として司令部の特命をうけ任務に就いていましたが11月21日(昭和18年だと思います)B24大型編隊の爆撃により機関室に被弾航行不能となり、アネマン島の送信所前のリーフに曳航されたと記録されています。

この記録からすると、この近くに送信所があったはずですが、降りて見てくる時間がありませんでした。

五隆丸2 帰路から見た船は逆光でしたので向こうへ回ってもらいました。この船はここでさらに何度も爆撃を受けたと記されています。

エネチェット島の砲 ジャボール島の対岸の島Enejet島にあった砲。2門ありこの砲だけがかろうじて原型を留めていました。海図ではEnyborとありますが現地の人たちはエネチェット(Enejet)島と言っていました。

ジャボール水道 英語ではチャンネルと言っていますが、ジャボール島が南(左)側に、エネチェット島(海図にはEnyborと表記)が北(右)側に位置するチャンネルです。この海図で右下にEmidjとあるのがイミチ島です。

イミチ島とジャボールの直距離は13Kmほど、ジャボール市街のチャンネルを挟んだ対岸に8cm砲2門と12.7cm砲が設置されていたと記録にありますが、写真の砲がどの砲なのか私には分かりませんでした。

エネチェット島より見るジャボール チャネル(水道)をはさんで向こうに見えるジャボールの街は、昔も同じように見えたことでしょう

ヤルート戦記

マジュロには離島の学校に先生として赴任している青年海外協力隊(JOCV)の人達が首都へ上がって来た時のためのド−ミトリィと呼ばれている宿泊施設があります。
ここの蔵書にこの本があり、ジャルートに赴任する隊員はもとより他の隊員達も読んでいました。

ヤルートやイミチ島についてはインターネットでも少し調べましたが、この本を読んでその情報の持つ気迫にただ圧倒されるだけでした。これまでの説明で具体的で詳しい部分はこの本の内容と対比した結果です。一部引用させていただた文言もあることをお断りしておきます。

本のカバーに次の文がありましたので内容の説明に代えてそのまま引用しておきます。

 太平洋戦争の末期、玉砕したギルバート諸島タラワ島とマーシャル諸島クェゼリン島の中間にあったヤルート島

本書は、米軍の猛烈な砲爆撃により焦土と化したこの孤島を死守した部隊の残存者が、その苦闘のありさまを語る証言と、戦火に散っていった戦友に捧げる鎮魂の書であり、次代の日本を背負う戦争体験のない世代に残す遺言である。

今回の私の調査は、ほんの2〜3時間に過ぎません。実は海の中に沢山の戦跡があると言われています。
記録によれば、文中にある五隆丸が被弾した11月21日に、ラグーンにあった6機の2式大艇も沈んだとあります。
ラグーンは捜し物にはとても広いのですが、これらを調べているグループもあります。
一例を以下に示しておきます。私がもう少し若くてダイビングが出来れば次は海の中を調べに行きたいところです。

http://www.tighar.org/Projects/Devastator/surveyjapanese.htm               

| Back |