This site devoted entirely to Amateur Radio


ジャカルタ通信


ドジ                               (2003-10-04)

(お急ぎの方は後半だけお読みください)

 この国では断食月が明けると、Jakarta中が田舎へ帰ってしまい、市内は渋滞もなくなり、丁度正月の都心のような感じになります。
1年目は何も知らず、仕事場へ出ておりましたが、職員は数分の一しか居らず、私だけが皆勤賞ものでした。
2年目は、そういうことならと、早くから休暇願いを出して、Jakartaから1時間のフライトで行けるVK9XへのExpeditionを、12月に計画しました。
一人ぼっちのExpeditionは、体調が良くなかったのと相まって、実につまらなく、5月の連休にもう一度、今度はいつも一緒にExpeditionへ出かけている、大和アマチュア無線クラブのメンバーと行こうと言う事になりました。
5月の連休は、私が任務を終えて4月の始めに帰国して、ほんの1ヶ月しかありません。
Jakartaで準備することがあれば、先にやっておくに越したことはありません。
まず、VK9XのRTTYは特にWの要望が多いから、是非やった方がいいと言うOM方のコメントを素直に聞いて、準備を始めることにしました。

JakartaにもRTTYに熱心なHAMは沢山居たので、いつも面倒を見てくれているYB0DPO Dudyさんのお家へお邪魔して、実際にどんなものか見せてもらいました。
MMTTYのソフトは非常にすばらしいから全然難しくないよ、と励まされ、早速インターフェース作りに取り掛かりました。
日本なら、さしづめ秋葉原へ半日かけてゆかねばならないところですが、アパートから歩いて数分のブロックMの中に電気屋さんがあったのを思い出し、まずは行って見ました。
店へ入ってまず驚いたことに、何度も日本へ行ったことがあると言うお客が1人、なんと日本製のCDウオークマンか何かのモーターが故障とかで、店員が店頭でそのモーターの巻き線を巻き直しているのです。
大きな洗濯機用のモーターを巻き直しているというなら驚きませんが、なんと手の中を覗き込まないと見えないくらいの小さなモーターを巻き直しているのです。


(ブロックMにある電気店Melawai Electronika 何でも揃う驚異の店)

面倒なので、集めるべき小物を書いたメモをそのまま渡したら、なんとなんと驚くなかれ、全部揃って出てきました。
JA1WSK勝見さんのホームページから、ダウンロードしたままの回路図にあったTrの2SC1815も、そのものずばりが出てきました。
私のIC-726の背面で接続するための、Din8ピン接栓もありました。
曰くD-subコネクターは2Fへ行ってくれと言うのです。2Fはコンピューターの修理フロアになっており、9ピンのD-subメスと言うと即出てきました。
なんとこの店1軒で完全に揃ったわけです。


(RTTYインターフェース用部品 ブロックMにある電気店「メラワイエレクトロニカ」でぜんぶ揃いました)

揃った部品の、しかも安いこと!
電車で秋葉原へ出かけた思いをすれば、日本円の1/10位でしょうか。
すっかり気をよくしてインターフェース作りを始めました。
回路部分はすぐ出来て、後はコネクターを取り付ければOKというところまで来ました。
最初に、9ピンのD-subの半田付けにかかりました。
するとコネクターのピンがグニューと沈むではありませんか!安い道理です、モールド材料が耐熱ではないのです。
思わずこれは安いなんてもんじゃない、いんちきだ!と叫んでみたのですが、待てよこんなコネクターで、彼らはどうやって製品にまとめているんだろう?と考えて、改めてその技量?の高さに思いをはせて仕舞いました。
私も仕方がないので、埋もれたピンをまた半田ごてを当てながらグニューと引き上げて、息をかけながら冷やして、それからNoteパソコンの裏面へまずコネクターを差込み、それから半田付けをして何とかやっつけました。
次にDinの丸型コネクターですが、恐る恐る半田ごてを当てたら、なんと!これも見事沈みました。
もうやり方は判っていますので、これも何とか時間はかかりましたが、作業完了です。

自分の無線機につないでピロピロとテストはしてみましたが、どうもこれで良いのか悪いのか自信が持てません。
そこでDudyさんへ電話して、次の日曜日の夜にテストすることにしました。

日曜日の夜になりました。
部屋の中では電波が殆ど受かりません。寝室のベランダから21MHzのDPを組立て突き出して、Dudyさんへ電話して「準備いいよー」と告げて実験開始です。このあたりは、大昔中学時代に、6ZP1の送信機を作って友人の家まで何とか電波を飛ばそうと(無論免許を取る前デス!)やっていた頃を、思わず思い出してしまいました。
でも、今回は送信機は古いけど、れっきとしたメーカー製ですDudyさんが送ってくれたRYRYの繰り返しと、コールがしっかり復調出来てオメデトー実験成功です。

実はここからが題名の「ドジ」の始まりです。
夜の12時過ぎ、雨が来そうなのでアンテナを仕舞うことにして、ベランダでアンテナとポールをたたんで部屋へ入ろうとしたら、ドアが開きません。外からは開かないモードになっていたらしく、蚊が入らないようにと、出たときに閉めたのが不覚でした。
そうならないドアロックモードもあったはずですが、実験成功に気をよくして、ふらりとベランダへ出たのが運のつきです。

もう深夜で、かれこれ30分くらい3階の私のベランダから下を覗いて、セキュリテイの巡回でもないかと見ていたのですが、だあれも通りません。
そこで意を決して、ベランダのドアのガラスを割ることにしました。


(割れたガラスではなく「割ったガラス」)

 


(ガラスを割るのに使った21MHzDP、この先に米軍の昔の無線機PRC-10の自動?折りたたみ長空中線(10ft)をねじ込んで使っています。矢印部:血のあと。写真は日本へ帰ってから撮ったもの、開梱してアンテナに血が付いていたのを始めて発見)



ところが、このアンテナでガラスを突いたのですが、割れないのです。思いっきり突いても割れません。
内心驚きながら、力いっぱい突いたら、何回目かに割れました。そこで泥棒がやるように?割れた部分から手を入れて内側のドアノブを回して部屋へ入りました。
ふと気がつくと、寝室の(人工)大理石の上に、転々と血が滴っています。左手の何箇所かにガラスが当たった様でした。
応急手当をしてしばらくすると、血がにじんでこなくなったので、部屋は散らかったままにして、右手で猫が顔を洗うように?何とか顔だけ洗ってこの日は寝ました。
でも、割ったガラスの写真だけはしっかりデジカメで撮ったのですからほめてやって下さい。
きっと心のどこかに、この三宅さんのホームページに書かなくてはと言う義務感?があったのかも知れません。

次の朝、病院へ「これから行きまーす」と電話して行きました。いつも見てくれる先生は日本人の内科の先生ですが、3ヶ所切れているうち、この大きい傷は縫った方がいいだろうと、インドネシア人の若い外科医へバトンタッチされました。
体格のいい(でも美人の)看護婦さんと2人で、傷口を縫ってくれました。麻酔をするので全然痛くないのですが、それでも血がしみ出てくるのを、ガーゼで看護婦さんがギューと押して取るのですが、それが結構すごい力で痛いのです。
結局3ヶ所皆縫うことになり、一部始終を見てましたが、結構退屈するので、切り傷というのはインドネシア語で何と言うの?と聞いたら、Terpotongとの答えです。
potongは切るですしpotong(切る)+rambut(髪の毛)で床屋ですから、terが付くと「切れてる」=切り傷 かなとは理解できるのですが、逆にそんな簡単な言葉でいいの?って、余計なことですが心配になってしまいました。
若いお医者さんはなかなかダンディーで、真っ白なブレザーを着ていましたが、そんなに器用でもないらしく、もしかすると私の方がうまくやれるかな?などと思いながら、3ヶ所の傷を縫ってもらいました。


(ガラスで切った箇所 包帯を取った後も一番大きな傷跡は盛り上がっていてぶつかると結構痛かった)

1週間後に抜糸、医者が抜き取り損ねた糸は、その後自分でピンセットで2本ほど抜きました。
2週間でほぼ包帯も取れて直りましたが、炊事お風呂洗顔という場面で、左手なのに結構不自由でした。
包帯をしている私を見て、皆さん「どうしたの?」って訊いてくれるので、「左手で女の子に触ったらガブリと噛まれたの」、と答えてお茶を濁していました。
この怪我でかかった全費用は、日本円換算約1万3千円で、現地の人の1ヶ月分の給料くらいです。それにしてもガラスというのは、意外と割れないと言う教訓を得ました。

| Back |