This site devoted entirely to Amateur Radio


A52VE ブータンレポート


 

19.緊急移送

 何を緊急移送したか?実はそれが問題です。
私が思いもよらなかったもの、なんと私自身が緊急移送された話です。
御用とお急ぎのある方は写真だけ見てください。
 6月の中旬に、ティンプーの平地を歩いている時(坂道では気付きませんでした)、左足を地面に擦っているのに気付きました。
靴の裏に何か付いたのかと見ましたが異常ありません。
意識して歩くと摺らないのですが無意識で歩くとまた摺っています。
 数日後、庭でしゃがんで鉈で焚き付けを作っていると、尻もちを付くようになりました。
更にある朝いつもの通りにネクタイを結ぼうとすると結べないのです。
あれ!と思い見ながら意識して手を動かすと結べるのです。
 友人
SVも「斎藤さんやっぱり変だよ、JICA事務所へ状況報告だけでもした方がいいよ」と言われ、6/21午後に行きました。
 
JICA事務所では、調整員が直ぐにブータン病院へ連れて行ってくれました。

結べなかったネクタイ この写真は6/20、即ち病院へ連れて行かれた(入院した)前日に自分で撮った(撮っておいた)貴重な?写真です

ブータン病院 ティンプーにあるこの病院は長い名前が付いています。JIGME DORJI WANGCHUK NATIONAL REFERRAL HOSPITAL 略してJDWNRHです

 この写真は、ブータン政府による研修時、見学と説明を受けたときのものです。
ブータンでは病院は国民も外国人も無料です。
この写真の建物は救急外来で
24H開いていると説明を受けましたが、まさか自分がここを訪れる事になるとはこの時は全く想像も出来ませんでした。
 緊急外来のナースが問診をしてくれて、名前や症状を聞いてメモし「ちゃんと言えてるから他にはおかしくないね」みたいなことを言われました。
直ぐに
CTを撮ることになり 、車イスに載せられ、後の一段高い建物にあるCT室へ、屈強な若者が(坂道を)車イスを押して連れて行ってくれました。
 
CT撮影の後は緊急外来のベッドに横になっているように言われました。

入院 これが緊急外来のベッド。「奥から2つ目が空いているからあそこに横になって」と、これが入院の始まりでした

 専門のDrが来るのを少し待ちましたが、DrCTフイルムを見て「慢性もしくは亜急性硬膜下血腫」と言う診断を下し、ここでは手術は出来ないので 、出来るだけ早くバンコックの病院へ移送し手術を受けるように、との指示を出しました。

621日ブータン病院でのCT 写真の左側が右脳です。本来脳と頭蓋の間には若干の隙間があり左右対称なのですが、写真では袋状の血腫が脳を圧迫して全く隙間がありません

 また左上の写真で正中線が反対側(左)へ押し出されています。
Dr
1.4cmのシフト有りと診断書に書いています。
脳の正常な左側(写真の右側)に黒く写っている部分は脳室と呼ばれる部分で、髄液で満たされていて黒く写るのですが、これも右側は圧迫されて見えなくなっています。

 さあここからが大変でした。
私本人は別に痛くもかゆくもなく、ベッドに横になって点滴が開始されただけでしたが、
JICA事務所はバンコックへの緊急移送手続き等々大変な作業が始まったはずです。 結局翌日のフライトは無理と言うことで、2日目の早朝ティンプーを車で出発しパロ経由Drukair機でバンコックへ移送されました。

 と書けば簡単ですが、点滴をすると頻繁にトイレへ行きたくなるし、病院からは一人で行ってはダメ、必ず誰かの肩を借りなさいとの厳命でしたので、夜中も友人SVや隊員の方に面倒を見ていただきました。
また、この病院は食事は出してくれませんので、これも調整員の方や仲間の
SVが差し入れてくれました。
 気軽に事務所を出たきりでしたので、何も(旅行)準備は出来ていません。
仲間の
SVで 、我が家の隣の青木さんちの犬に面識のある?(吠えられない)方に頼んで家から旅券を持って来て戴きました。
などなど、とにかく全部他の人達のお世話になって移送が成り立ったと言うことです。

執刀医 私の手術をしてくれたBangkok International Hospital (Corporation)のDr. ParanotICUにて

 緊急移送はJICAが保険契約しているSOS International Serviceにより6/23のフライトで行われ、バンコックに到着すると飛行機タラップ下の救急車で病院へ直行し、その日のうちにブータンでのCTフイルムをもとに手術が行われました。

穴はあなでも こういう穴は滅多に見ることが出来ません。病院から退院の時持たせてくれました

 手術は頭蓋骨に穴をあけ、硬膜をメスで切り血腫に溜まっている(古い)血液を出し、更に生理食塩水で洗うのだそうです。
そのためにもう一カ所穴をあけたと
Drは言っていました。手術後更に残る液を出すためドレインチューブを留置し2日後外しました。血腫に溜まっていた血液は多分200ccはあったのではないかと言われました。

ICUナース 麻酔から覚めても痛くもなく出される日本食も美味しいし、ナースも優しく快適でした

手術後2日目 一般病棟へ移る事になり、ドレインチューブを抜く直前に撮って貰った写真。確かに2カ所縫った跡があります

 この病院は近くに複数の建物があり、ICUのある建物から一般病棟へは一度建物玄関から救急車に乗せられ別のビルに運ばれました。

一般病棟 一般病棟の病室は全て2間続きの個室で豪華ホテル並み

次の間 どちらの部屋にも大画面の液晶TVがついていました。ソファーはベットにもなり、付き添いが泊まることも出来ます

台所 大きな冷蔵庫、電子レンジ、湯沸かしポットがついています。また毎日十分なミネラルウオータも配られます

洗面所 左はシャワールーム

日本食 3食とも日本食が出されます。メニューも有って選択できるので途中から朝食だけアメリカンにして貰いました

 ブータンで限られた食材で自炊していましたから、ここの日本食はとても美味しく、病状から制約される事もなかったのでパクパク食べて、多分体重は増えたと思います。

スペシャルナース Drから手術のあと付き添いが必要との指示が出され、病院で2人のナースを交代(24H体制)で付けてくれました

 2人のナースは、私の看護のためこの病院からの手配でバンコックへ来たとのこと、病室ではヒマなのでタイ語を教わったり何処で勉強したかなど色々聞くことが出来ました。

Nang Yanisa(上の写真右):タイ北東地域のSri Sakit 出身28才未婚。SurinNurse Colledge(4年)を修めた後、更に大学で上位の資格を取った由。兄2人。本人は両親とSri Sakit に住み地元の公立病院に勤務。

Tuenjit Paradubwong(通称Tuyさん、写真左):タイ北東地域(Iesan)のChaiyaphum出身。37才独身、NakhonratchasimaNurse School4年間勉強、居住地のChaiyaphum Hospital に勤務。兄2人、一人はバンコックで警察官、もう一人は地元の同じ病院で働いているとのこと。

2人とも地方都市からバスで45時間かけてバンコックへ来てくれたナースでした。Yanisaさんは夜間の担当でしたが、夜間も病室のソファにきちんと座り何かの本を一生懸命読んでいました。

リハビリ 手術後隣のビルの7Fにあるリハビリ室でリハビリが始まりました

 手術後23日間は病室で10m程を歩いてDrがチェックしていましたが、その後は病室のある6Fから3Fまで階段で下り、繋がっている隣のビルの7Fにあるリハビリ室まで又階段で上り、午前と午後各1回ウオーキングマシン15分と自転車こぎ15分を行っていました。
 毎回セラピストが部屋まで迎えに来て、終わった後も部屋まで送ってくれます。
一度女性の少し太ったセラピストが来た時、階段を登り終わって苦しそうな息づかいだったので、本来患者(私)用の心拍数を測る指クリップ式測定器で私が測ってあげたところ
129の心拍数でした。私自身はこのくらいの階段では120まで行きません。で、「もっと運動しなくっちゃいけないよ」と指導?しておきました(笑)。

病院の別棟 7Fのリハビリ室からみた隣の(病院の)建物

窓の外 リハビリ室は眺めが良くバンコックのビルが良く見えました

 私は、若いとき仕事で2度バンコックを訪れています。
最初の時、この地で主任になった旨のテレックス(なんと昔でしょう!)を受け取った事を覚えています。
バンコックは、その後大いに発展していて驚くことばかりでした。
私が最初に来た当時
1バーツ=15円でした。タクシーに乗るとき値段を交渉しなければならないのでタイ語の数字だけ大急ぎで覚えた記憶があります。

入院していた建物 3Fに日本人専用受付があり、2Fにはアラビア人専用の受付があります。日本人専門クリニックを設けて30周年とありました

コーヒーショップ 1Fにはなんとスターバックスがありました。無論お客や患者が席で飲むことも部屋に持ち帰る事も出来ます

 私は時々ここでコーヒーとケーキを買って部屋に持ち帰り、お腹いっぱいになる食事を少し残して、ケーキの間食をしていました。

隣のビル これも病院の建物です。2Fに渡り廊下があります

展示室 この建物の2FにはTSUMAMI(津波)の展示室がありました

 この病院は大きな建物が4つほどあって、キャフィテリアやセブンイレブンや本屋・花屋・レストラン等が入っており散歩して退屈しません。

日本人受付 無論全部日本語で用が足せます

巡回カート 病院の建物間をカートが巡回しており誰でも(患者も)乗ることが出来ます。車イスのまま乗れる広いカートもありました。

救急車 飛行機のタラップ下で待っていたのはこの救急車でした

ナースステーション このフロアに約20日間お世話になりました

 このフロアには日本人患者が多く、ナース達は皆片言の日本語を話します。
夜、インターネット用コンピューターを使っていましたら、日本語が聞こえてくるので見ると、ナース達が自主勉強と称して数人で日本語のおさらいをしていました。
私も日本語教師の勉強をした身ですので、にわか先生で
40分ほど教えたりしました。
 日本語で驚いたことは、ナースが今日は「うんち何回?」って聞くので、えっ!そんな日本語分かるの?って聞いたら「タイ人の大人も子供もみんな「うんち」は分かります」と言うのです。どうやらこれはアラレちゃん(
Drスランプ)のおかげなんだそうです。
 はからずもマンガ文化の影響の偉大さを知りました。

 病院に丁度20日間お世話になり 、8/12 JICAの指示で日本へ療養一時帰国することになりました。

718日のCT 手術後1ヶ月弱のCT画像。まだ血腫の袋の跡が見えており脳室も左右非対称。頭蓋骨にあけられた穴が写っている

 日本へ戻り市内の脳神経外科で検診を受けた時のCT画像です。
その後
、JICAからは任期短縮とする旨の指示があり、8/28から1週間の日程で一度ブータンへ戻り仕事と家の後始末をして 9/6で(任期終了)帰国となりました。

離席表 約2ヶ月ぶりに戻った職場の机。離席表にJune 21 JICAHome とあります

 Homeがバンコック経由日本のHomeになってしまったと言う次第です。

1010日のCT 手術から3.5ヶ月後に受けた検診の結果。血腫の跡も完全に吸収され無くなっており医者からはもう来なくて良いと言われました

 日本の複数の医者からはこの病気は再発する可能性がある(約10%)と言われていましたが、自分で思っていたより早く完全回復が出来たと思いました。
 2年の任務を全うできなかった事は、皆さんに多大な迷惑を掛け残念なのですが、一方では使える時間を戴いたと何だか又張り切っている自分が居ます。
 今回初めての入院・手術を経験して2つ心に感じたことがあります。
一つ目は、
JICAで赴任する度に皆さんから、大変ですね、ご苦労さんですね、と言われた時、「いや、人間一度は死ぬんですから(何処に居ても同じです)」と言っていましたが、そんな事は思っていても口に出して言ってはいけないことだとつくづく思いました。
 なぜなら、今回は私がお礼を述べたくても言えない様な大勢の方々が非常事態として献身的に動いて戴いた訳ですから。
 今回私が受けた沢山の善意をこれから色々な時と場面で少しでもお返しをしたいと考えています。

二つ目は、よく人は死ぬと49日間は魂が天に行かずその辺を徘徊していると言われています。
今回私は、朝食を食べいつもは洗ってから出かけていた食器は水に浸けたまま、ベッドも起き抜けのまま、それが入院→バンコック→日本と約2ヶ月間自宅に帰ることが出来ませんでした。自分では何一つ出来ない状態でしたから、家の事が(それだけのことが)とても気になりました。
 よく不慮の交通事故で、お母さんが亡くなってお子さんが残された様なニュースを耳にすることがあります。
もしそうだったらお母さんの霊は絶対に直ぐには天国へは行けないはず、と私も心から信ずる事が出来る様になりました。
 私は今年
67才ですが、新しい経験をする度に今まで見えなかった事がまた少し見えてくると言うことを学んでいます。

| Back |